小説「遠い太鼓」から 言葉を持たない

小説「遠い太鼓」から 言葉を持たない

「遠い太鼓」村上春樹著。 好きな文章抜粋しています

今こうして日本に帰ってきて、机の前に座ってその三年間のことを考えていると、とても不思議な気分になる。ふりかえってみると、奇妙な欠落感がある。質感のある空白。ある種の浮遊感、あるいは流動感。その三年間の記憶は、浮遊力と重力の作り出す狭間を流されるようにさまよっている。その年月はある意味では失われている、でもある意味では、それは僕の中の現実にしっかりとしがみついている。僕はその記憶のグリップをはっきりと身体のどこかに感じつづけている。記憶の長い手が、非現実の暗闇のどこから伸びて、現実の僕を攫んでいる。僕はその質感の意味を誰かに伝えたいと思う。でも僕はそれに相当する言葉を持たない。それはある種のこころもちがそうであるように、おそらく比喩的な相対としてとしか示せないものなのだ。